相愛高等学校 相愛中学校 オフィシャルブログ
行事報告
クラブ活動報告ページはこちら
コンサート活動報告ページはこちら
2013年12月07日

成道会法要

<成道会(じょうどうえ)>

 人はなぜ年をとり、病気になって死んでいかなければならないのか。この問題を克服する道はないのか。お釈迦さまは幼い頃からこの疑問を解決したいと想い続けてこられました。

 二十九歳のとき、お釈迦さまは王子の位を捨て、この疑問を解決するために修行者になられました。そして著名な師のもとで教えを聞き、修行に励まれました。すぐに師の境地にいたりましたが、疑問の解決にはいたりませんでした。そこで、お釈迦さまは当時よく行われていた苦行に挑まれました。身体は弱り、これ以上は生命を奪いかねないというレベルまで追求されました。しかし、これもまた疑問は晴れず、目的は達成されませんでした。

 苦行の無意味さを知られたお釈迦さまは、疑問を克服する真実の道を悟るまでは、動かないという決意のもと、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で静かに瞑想(めいそう)に入られました。そして、四十九日目の暁(あかつき)に、ついに目的は達成され、真実の悟りを得られました。仏陀(ぶっだ)(真実を悟った者・覚者ともいう)となられたのです。それは、疑問を抱いてからは二十数年、修行者になってから六年目、三十五歳の十二月八日のことでした。

 苦しみや悩みに出あった多くの人は、私はなぜこんな目に遭わなければならないのか、私だけがこうなるのは不公平だ、世の中間違っていると考えるようです。しかし、たった一人だけ特別な苦しみや悩みを持つということは、まずありません。一人ひとり顔が違うように、心も違います。考え方や受け取り方も違います。また、生活環境や生育条件も違えば、過去以来の因縁(いんねん)も違います。しかし、そんな私たちも、生まれる(生苦(しょうく))ということは、必ず老い(老苦(ろうく))、病に冒され(病苦(びょうく))、死んでいきます(死苦(しく))。また、愛するものとも別れ(愛別離苦(あいべつりく))、怨み憎むものとも出あい(怨憎会苦(おんぞうえく))、求めても得ることができず(求不得苦(ぐふとくく))、生きていくことすら苦(五蘊盛苦(ごうんじょうく))となります。お釈迦さまは一切は皆苦であり、これこそが真理であると説かれました。

 仏教とは、仏陀の教え、真実に目覚めた者の教えです。お釈迦さまは真実を悟られただけではなく、その内容を説いてくださったからこそ、私たちも真実に出あうことができます。真実の悟りを得ることを、道が達成するという意味で、成道といいますが、私たちは、この日に、お釈迦さまの成道の一端を学び、自身の人生を省みるための法要を行っています。


成道会にあたり、音楽法要を勤修いたしました。

20131207_01.jpg  20131207_02.jpg

20131207_03.jpg  20131207_04.jpg

20131207_05.jpg  20131207_06.jpg

  

ご法話は本校校長 安井大悟先生。

20131207_07.jpg


法話の内容を以下に、紹介します。


 法語を読みましたが、少しだけ補足をして本日の法話に入りましょう。さとりを開かれたことを「成道」と言います。ゴータマ・シッダルタ太子は実在の人物ですから、人間の中で生きている内に「仏陀」「覚者」(めざめた人)となられた最初の人であるということです。

 仏教的に言うと、悟りの世界に到達するために実践しなければならない修行は6種類あって、これを六波羅蜜と呼びます。6つは宗教の時間に譲って、この1つ、今日は布施行について話しましょう。

 単に"物を贈る"といっても、報酬とか、みかえりを期待する打算的なものと、「小さな親切運動」などのように、「ありがとう」「お世話さま」「おかげさま」の声かけやお手伝いなど、何ら期待するものではないものとがありますね。

 11月15日、中学2年生の英語暗唱大会で、2組の生徒が「クリスマス・プレゼント」というショートストーリーを暗唱してくれました。この文は有名なアメリカの小節の一部で、愛しあう若いカップル、ジョンとスーザンのお話です。ジョンは貧しいので彼女が欲しがっているものをプレゼントしようと、大事にしていた懐中時計を売って彼女にくしを買います。スーザンもお金がありませんから、自慢の美しいブロンドの髪の毛をかもじ屋に売って彼の懐中時計につける金の鎖を買うのです。

 さあ、クリスマスの夜、お互いに交換したプレゼントをあけた時、それぞれの品が今となっては役に立たないことを知りますが、どんな贈り物よりもうれしく、二人がしあわせな気持ちで満足されたというストーリーです。大切なのは、ジョンの心、スーザンの心であって、物ではないことが判りますよね。


 話をさらに進めましょう。困っている人を見て、あるいは苦しみ悲しみの底にある人に対して、ひとことの慰めやわずかな品も、その人にとっては大きな励ましになり希望になることもあります。また、小さな子どもが川で溺れそうになっているのを見て、飛び込んで助けたり、踏切で倒れた人を、あるいはホームから転落した人を間一髪で助けた美談を耳にします。この瞬間に、報酬や見返りなど誰も考えてはいないでしょう。


 経典にはこうあります。『乞う者を見て与えるのは施しであるが、最上の施しとは言えない。心を開いて自ら進んで他人に施すのが最上の施しである。また、ときどき施すのも最上の施しではない。常に施すのが最上の施しである。施したあとで悔いたり、施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、この3つともに忘れるのが最上の施しである。正しい施しは、その報いを願わず、清らかな慈悲の心をもって、他人も自分も、ともにさとりに入るように願うものでなければならない。』です。

 施しは財産を持っているからできるというものではありません。お金持ちほど吝嗇家だとも聞いています。「無財の七施」と呼ばれる、財のない者にもなし得る七種の布施行をご紹介して終わりましょう。


 身施:肉体による奉仕であり、その最高は捨身行(身を捨てても助けること)だとされます。

     被災地に入り、片づけを手伝いするボランティア活動はこれです。

 心施:他人や他の存在に対する思い遣りの心を配ることを指します。

 眼施:やさしいまなざしであり、そこにいるすべての人の心がなごやかになることをいいます。

 和顔施:柔和な笑顔を絶やさず常に人に接することです。

 言施:思い遣りのこもった、温かい言葉をかけること、また、いたわるような声かえを指します。

 床座施:自分の席を譲ることであります。座施ともいいます。

 房舎施:わが家を一夜の宿に貸すこと、泊めてあげることであります。宿施ともいいます。


 私にも、すぐ、いつでもできそうです。進んで実行する心構えを持ちましょう。

ご静聴有難うございました。


2013年12月7日(土) 相愛中学高等学校

校長 安井大梧


宗教科

2013.12.07
このページの先頭へ