
本日、講堂において、涅槃会(ねはんえ)が勤修されました。
2月15日の釈尊(お釈迦さま)の入滅(にゅうめつ)の日に先立ち、毎年全校生徒によって涅槃会を勤修しています。
音楽法要の中で、聖歌隊による献燈・献華・献香・讃歌のあと、安井校長による〈涅槃会法語〉法語が読み上げられました。
〈涅槃会法語〉
弟子達よ、汝たち、おのおの自らを燈とし、自らを頼りとせよ。
他に頼ってはならぬ。この法を燈とし、頼りとせよ。他の法に頼ってはならぬ。
弟子達よ、法の要は心を修めるにある。ゆえに欲念を抑えて、己に克つことに努めねばならぬ。
身を端し、意を正しくし、語を誠にせねばならぬ。
貪ぼることを止め、怒りをなくし、悪を遠ざけ、つねに無常を忘れてはならぬ。
若し、心が邪にひかれ、欲念に執われようとするならば、これを抑えねばならぬ。
弟子達よ、私の臨終も、もはや近づき、別れることも遠くはない。
しかし、いたずらに悲しんではならぬ。
世は無常であり、生れて死なぬものはない。いま私の身体が、朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の法を、身をもって示すのである。されば、いたずらに悲しむことをやめて、この無常の法におどろき、人の世のすがたに眼を覚まさねばならぬ。変るものを変らせまいとするのは無理な願である。
弟子達よ、いまや、私の最後の時である。
然し、この死は、肉身の死であることを忘れてはならぬ。
肉身は父母より生れ、食によって保たれるものである。
それ故に、わずらい、きずつき、こわれることはやむをえない。
私は肉身ではない。覚の智慧である。肉身は、ここにほろびても、覚の智慧は永遠に、法と覚の道に生きている。それゆえに、私の肉身を見るものが、私を見るのではなく、私の法を知るものが、私を見るのである。
弟子達よ。わがなき後は、私の説き遺した法が、汝達の導師である。この法をうけたもち、私に仕えるようにするがよい。
弟子達よ、いまや私の最後である。しばらく止めよ。
私は今より、寂かな涅槃に入るであろう。
これが私の最後の誡めである。
ご法話は、本願寺派布教使・大阪府枚方市浄行寺住職 義本弘導先生です。
先生はご法話の中で、「お釈迦さまはお弟子の方々に『常に世は無常であることを忘れてはならない』とおっしゃいました。よく『人間死んだらおわり』という人がいますが、何のために生きているのかと問うてみたとき、死んでしまったらおわりの人生ではむなしいと思いませんか?みなさんも身近で愛する人が亡くなったとき、または自分が亡くなったときになったことを想像してみてください。残された人たちから『死んでしまったらおわり』といわれたらどんな気持ちになりますか?
世の中のすべての物事は絶えず変化し続けることを無常といいます。お釈迦さまは、私たちがわかっているつもりでも実際は間違ったとらえ方をしてしまっていることに深い悲しみを覚えられ、阿弥陀さまはそんな私たちのために『人間死んだらおわりじゃない。仏と成らせていただく人生を歩んでほしい』と願われていますよ。と教えを説き終わられて、静かに涅槃に入られました。」
最後に生徒達へ提案として、14日はバレンタインタインデーですが、翌日の15日は涅槃会です。是非、涅槃会チョコを!と堂内をわかせていました。
ご法話の後、各代表によります献華とお焼香がありました。
この度の涅槃会のご法要を通し、あらためて阿弥陀さまのお慈悲の暖かさに気づかせていただきました。
合 掌
宗教教育委員会
委員長 太田正見