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2014年06月07日

人に好かれる方法<就活の一性格から社会へ>

《キャリア教育推進部より生徒のみなさんへ》

 タイトルが大仰なものになった。まず言っておこう。役に立つかどうかは、人それぞれであるが、知らないよりは知っていた方が良いだろうから少し書いてみようと思う。そんな気持ちに端を発し、読み手の皆さんには行間を愉しんでいただきたいと思う。日本経済新聞電子版(2014/5/28 7:00)に「人事が欲しがる体育会系 意外な『就活最強』競技」と題する記事が掲載された。折しも就活にいそしむ大学生が町行く時に恰好の記事となっているようである。記事には 

「体育会系学生を大量に欲しがるのは金融系。代表がみずほ銀行、三菱東京UFJ銀行、野村証券ですね。営業を根気強くやる『ソルジャー(兵士)』としてです。次が総合商社で、住友商事は採用の3割が体育会系といわれています。もっとすごいのがIT(情報技術)サービスの大塚商会。体育会系比率は5割。営業トップ10のうち、だいたい半数が体育会系社員なので、採用も半数が体育会系になったという噂です」 

と評判を解説する担当者の声を紹介している。「噂です」と内容を否定するものの、都市伝説とするには根も葉もないことではないらしく、人事では競技の志向性にまで目を向けていることが紹介される。チームで働くために社員に何が必要かを考えているようで、『One for all,All for one』をむねとするラグビー、戦略に基づくアメリカンフットボール...と紹介が続く。競技者ではなくとも、チーム全体に目線を向けているマネージャーの強みも語られる。一方、個人競技スポーツの評価について手厳しいところを記しているうえ、団体競技にチームワークに優れているという先入観が、競技性の評価に棹さしていることも指摘している。なお、この電子版には<読者からのコメント>欄があり、5/30昼時点では23件の入力閲覧可能コメントがあり、概ね記事内容に同意、賛意を示すものとなっている。加えて、「企業は体育会信仰を捨てよ」とか、「従属精神がパワハラを許している」と、企業の体育会人事傾向を認めつつも、その体質の変化を期待する声まで載せられているところは興味深い。コメントには「就活に有利だから体育会に入るというのは本末転倒」と戒める声もある。記事掲載の後のコメントをも想像するためか、記事筆者あるいは編集デスクは見出しに「意外な」と差し込んでおり、私たちはそれを事実を和らげるレトリックと理解しておいて良いだろうと思う。ほぼ事実だと認定できることに「意外な」とは、事実認知を拒みたいという意思も読めないではないが、邪推であるとしておこう。  

 さて、この記事に反論することなど微塵もないが、社会での風潮を読み取りどのように適応していくかというのは「遅れて入る者」の一般的な思考である。入ろうとする社会がより良い状態であることを望んではいるものの、なかなか変わらないというのが悲しい現実と言わねばならないことも多い。人は材料ではないのに「人材」と呼ばれることなども、そうした思いのライン上にある。「材」を「財」と改めて「人財」としてもらえるなら、少しは嬉しいのだが、これもなかなかである。日本で、女性の参政権が確立してから、男女の共同参画社会が叫ばれるまでどれほど時間のかかったことか。今なお叫ばれているとすれば、従前と変わらずにあると指弾されているに等しいと思わねばなるまい。ただ、これから社会に入る「遅れて入る者」の立場で、入る先である社会にうらみごとを言っても仕方が無い。学ぶ側から「これ役に立つんですか?」「こんなの勉強じゃない」という言説はこの「恨み言」だと言っていいかも知れない。発言する者は恨み言というより買うか買わないかを迷う消費者よろしく述べているつもりだろうが、手に入れなければ損をするのは、学ばない者であることがはっきりしている。社会に適応するかしないかの問題もさることながら、生き方の多様性についても了解しておく必要もあろう。女子生徒には、女性にはいろんな価値尺度があるから、ティーンズから20代にかけて販売されている雑誌が、男性向け雑誌よりもはるかに多いこと、女性向け商品の百貨店の売り場面積が男性のそれより遙かに多いことなど女性の生き方に多様性があることは理解できるはずだと説明している。男性に比べ、女性の志向や社会での位置づけは多様であるということである。この点で男女は等しいとは言い切れないと言えば言い過ぎに聞こえるだろうが、人生が魅力ある生き方に満ちていると言えば納得していただけるだろう。「あとから遅れて入る者」の立場で同じ選ばれることにおいても、就職できることも、勉強できることも、センスが良いこともそれぞれ違うスケールがあてられて測られていると思えばいい。これでも判らなければ、彼氏のお母さんにはじめて出会ったとき「有機化学ができるのね」とか「貴方の線形代数が素敵なのよね」などと言われたという話は、聞いたことがないと申しあげればわかってもらえるだろう。価値尺度の違いからくるものなので、ジェネラリティかスペシャリティかの問題でもないのである。あてがわれるスケールが異なると理解した方が良いのだが、注意すべきは変えるべきは「遅れて入る」自分の側だけであると言い放つのは早計である。社会とは複数の人で構成されるので、数値的な「モード」のほかに「メンタリティ」などが場や関係性を変えることがある。

 かつて、授業で「学び」を取り上げた折に、内田樹氏『日本辺境論』(新潮新書 2009年11月)p140~p149を扱ったことがある。本文に紹介された池谷祐二氏の話に、「もし好きな人がいて、その人を振り向かせようと思ったら...」という内容が出てきて、授業の眼目からやや逸れてそこを行間余すことなく読み取ろうとしていた生徒が何人かいたことを覚えている。詳しくは書籍に目を通してもらいたいが、つまるところ行動を合理化させる感情が働くというものなのだそうだ。「好きだから勉強する」と普通は考えるが「勉強するから好きになる」ことがあるというのである。ここだけ見ても判らないなら、本を読むか、実践してみるかである。見出しに「好かれる」と記したが、恐ろしいことに「いじめられる」「嫌われる」ことの分析にも、このあたりにヒントがあることも忘れないでおきたい。  

 就活の話を導入として、内面の探査は外面からはじめるということ、個性を尊重するかのような風潮の中で採用現場ではある特定の採用モデルがあるということ、それは所属したスポーツの特性を企業の利便性に結びつけているところがうかがえるということ、採用されるモデルが作り出す企業体質の危険性、採用されるモデルに寄り添っていくことの危険性に言い及んだ。社会については、社会がどうあるべきかを論ずることは、よく行われるところであるがその変化への期待とそのレスポンスに時間的隔たりが大きいこと、改善への時間的余裕が私たちに乏しいこと、消費論理よろしく対象を捉えると時として陥穽にはまることに目を向けた。女子生徒、女子学生に向けての人生のとらえ方が男性のそれとは違っていることや人間力をはかる尺度が場面によって異なることを承知すべきことだとした。一方、社会に参加していく人だけが変化を求められるのではなく、対峙する個性や集団が行動の合理化から心理状態に変化を起こす例を引いた。「好きになること」と対立するような心理状況も生じさせるモデルがあることも想像したのだが、指摘するにとどめた。そうして、あらためて「好かれる」ことを考えると、「認める」ことの関わりが大きいと思えてならない。我が校の生徒には、『日々の糧』12日朝、16日夕を咀嚼してもらいたいが、一般の方にはたとえばこの典拠である『仏説阿弥陀経』に触れていただきたいと思う。抱え込んだ問題を、どのように引き受けるのかはそれこそ問題であるが、何が正解で何が誤りであるという簡単な問題ではない。「人に好かれること」を想起して読み続けた挙げ句、これらの文言に頷いていただけたなら結構。「なんてうざったい文だ。肝心なことが何も書かれていない。」と思われている方、むしろ頷いていただけなかった場合、それこそが「好かれること」に関わる「学び」の位置にあるといっていい。「肝心なこと」を読む前から期待し、想定しているのだ。つまり、その位置こそが「認め」ないでいることであり、「引き受けずに」いる位置そのものなのだから。読み手にとっての答えは、すでに読み手の胸中にあったと言うべきだろうか。頷いた方にはこの文章はさほど価値のなかったものでしかなかったが、「なんてうざったい」と思われた方にはずいぶんと価値があったのではないかと筆者は思量するところである。 

(文責 キャリア教育推進部 若生哲)


注 小稿を綴っている最中にハフィントンポストに土堤内昭雄氏「『アナと雪の女王』にみる社会の姿」(ニッセイ基礎研究所社会研究部主任研究員2014/5/30 19:02)が掲載された。1970年代に流行したビートルズ"Let It Be"と挿入歌"Let It Go"を比較しつつ「現代社会の制約」に目を向けている点が秀逸である。氏は「ありのまま」を希求する点で同じだとまとめるが、一世代から二世代のジェネレーションギャップをうかがう意味でも高論だと思う。上記拙稿と併せて参照されたい。

2014.06.07
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