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2015年06月16日

表彰されるということ~目標と立ち位置と~ (キャリア教育推進部)

 今年もうれしい発表が続いた。我が校、体操部・新体操部が全国大会への出場権を獲得したのだ。大阪府内の予選での表彰状が、皆の前で読み上げられ、その研鑽と全国大会出場の激励がなされた。相愛に勤めて以来、毎年のことだったので、特に意識もしなかったが、どこか引っかかるモノがあった。それについて述べてみようと思う。

 讃えることも、讃えられることも決して悪いモノではない。賞賛されることは、とても嬉しいモノだ。それまでの努力が実り、その成果を評価される。スポーツであれば、競技ルールの下での競争に勝利したこと、おそらくはその勝利の背後に並々ならぬ研鑽があるだろうことが認められて讃えられているのだ。偶発的に取得された宝くじに対して誰も賞賛はしないが、熱意・根気・努力・時間など費やしたコストの大きさを鑑みたとき、総合的にそれを評価する基準に照らして人はそれを賞賛するのだ。

 くどくど一般論を述べたが、「引っかかるモノ」の次元をお話ししようと思う。その正体について、筆者はかつて自らの体験から捉えてはいたものの、当時の私は友人にさえ上手く伝えることさえできなかった。友人に言った言葉をそのまま恥じらいもなくここに記してみよう。私は「地方で勝っただけであり、全国の試合はまだ始まってもいないのに。」とつぶやいたのだ。皆さんはどう思うだろうか。ありがたいことに別のクラブに所属する友人は高校1年生の私を叱責してくれたのだ。この叱責には、いろんな意味がこめられているのだとあとでわかり「ありがたい」と思うに至ったのだが、その場の私は憮然としていたと思う。

 全国大会に行けることの価値は自分にもよくわかっているし、確かにトロフィーや賞状もいただいた。けれども、当時脳裏にあったのは「自分はどのくらいの位置にいるのかということについて、はじめて評価されるところに行ける」という意味で、全国大会に臨もうとしていた。ただ、この言葉がどんな意味を持つかということについて、同じチームで出場する同級生には「(誰にも)言わない方が良い。これは自分たちにしかわからないことだから」と諭されてもいたから、友人の叱責に反論することもなく、水掛け論に展開することもなくその場をやり過ごした。もし賞賛をしてくれるなら、私たちの志を理解した上で讃えてほしいというのが、私の本心であり、その点で「わからないことだから」というチームメイトの友人とは理解を異にしていた。 

 言う機会を逸していた、慚愧に堪えない、というよりもわかってもらえないだろうというのが、つい最近までの私の立ち位置であった。しかし恵まれたことに全国大会で優勝経験のある指導者が職場を同じくするようになったことで、談笑の内にそこに触れるとすぐに私と同じだと判った。「トップの背中を見たり、前に誰もいない経験をしないとわからないことがある」と氏のいうことが実感としてわかった。それでもなお、理解してもらいたいという思いと機会がないという思いで葛藤し、今に至ったのである。この点は恥じ入る必要があろう。教育する者として未熟であったと言わねばならない。

 ただこうして今ココに話してみようと思うきっかっけがあった。複数のメデイアで取り上げられたので、ここに紹介してみようと思う。今日6/12朝に「欧州発明家賞:カーボンナノチューブ 飯島氏ら3邦人受賞」の報に触れた。日本の技術力がまたしても評価され、これによる文明の進化が世界に期待されていることが何より嬉しかった。その発明の深遠さ有用性など私にはわからないが、ともかく嬉しかった。受賞は、飯島澄男・名城大終身教授、湯田坂雅子・名城大特任教授、小塩明・三重大助教の3氏であり、メディアの受賞コメントで「本当にびっくりしました」と湯田坂氏が仰ったのに続いて、破顔のもと「まだまだ頑張れってことなんですよねっ」と仰ったことに感銘を受けた。この言葉に賢者の大事なメッセージがあると思うのだ。これだけでは判りづらいので、もう一つ例を掲げると、私の言わんとすることがすこしは判って頂けるだろう。ノーベル賞を受賞した折の山中伸也氏のコメントを覚えていらっしゃるだろうか。氏は「(ips細胞は)まだ、誰一人救ってはいないのですよ」とコメントされた。それぞれのコメント時の感情や物言いに多少の差はあるだろうが、このような志に少なからず感銘を受けたのだ。私意でこれを翻訳すると、「私はまだ業半ばである」というところか。

 キャリア教育レベルに話を戻そう。賞賛される側のメンタルに触れることは、その経験が一番わかりやすいといえるだろうが、その機会をさまざまな機会として作り出しているのが、日本国の初等教育・中等教育であると言うことができよう。ここで、学校内においては大きな受賞以外は賞賛する必要はないとか、(賞賛される者の志向が)わからないことを引き受けてほしいというつもりはない。むしろ逆である。賞賛の機会は多い方が良い。さらに賞賛される者は、賞賛がゴールではないと理解することが望ましく、その賞賛を通して、わずかな孤独を味わってほしいものだと思っている。ただし、このわずかな孤独、あるいは孤高というものは妙薬である。誰しも努力を続け、その成果が現れるようなことを経験することがあろうと思う。その時、自分にはまだ先があるのだと思えるようにすることは極めて重要なことであり、その研鑽の果てに未来が構築されていくだろうことが分かるだろう。そこにはマジョリティとかポピュリズムは存在しない。この胸に引っかかる孤独という妙薬に気づくはずである。評価されても、評価されなくてもマイノリティの試練として受け取ってしまうようなこともあるだろう。しかし、自分のためにも、多くの人のために未来を作っていることが味わえることに違いはないと思う。もし私が、未来や未来の幸福を味わう感覚を説明せよと問われたとしたら、未来を創るときの味わいはこの妙薬をおいて他にないと答えるだろう。経験からスポーツでも学問でもこの妙薬は存在すると断言できる。しかも、もっと多くを味わっている人の偉大さもわかる妙薬でもあるのだ、と。

 (文責 キャリア教育推進部 部長 若生哲)

2015.06.16
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