相愛高等学校 相愛中学校 オフィシャルブログ
行事報告
クラブ活動報告ページはこちら
コンサート活動報告ページはこちら
2015年06月18日

ルールが変わるということ~理解だけで十分か否か~ (キャリア教育推進部)

 すこし"おさらい"をしておきたい。5/19ブログ「学内専用」に掲げた「『都構想住民投票に学ぶ』において、「今ココにいない人のために真剣に議論をして、今ココにいない人のために努力をすることが政治的知性であるように思う。」と説明し、これは学校で学ぶ「思いやり」という正義である、と。さらに『表彰されるということ』では、努力研鑽の果てが、孤独・孤高につながる可能性を指摘し、マジョリティやポピュリズムとは異なる心域が存在すると述べた。未来構築のためのメンタリズムの一端として説明をしたというのが、このブログ二つの振り返りである。

 では、正義は「思いやり」からのみ発せられるのか、未来構築のためにマイノリティにならないとダメなのかという質問についてYes Noを問われると、答えに窮することもある。結果からいうと、いずれもYesでありNoであるのだが、事例を引用しキャリア教育の視点から述べてみようと思う。

 ルールの変更とテーマを聞き、前に「大阪都構想住民投票」を契機に述べたので、今回は「安全保障関連法案」「労働者派遣法改正案」についてだろうと思った方がいるだろうが、すでにそう思った方には別の読み物に目線を移していただくことをお勧めする。もっと卑近なことを考えていこうと思うのだ。というのは、自転車運転についての「改正道路交通法」についてである。ルールの変更が何をもたらすかについて考えていこうということなのだ。自転車運転についても安全についての注意義務や自転車それ自体が「道路交通法」上で「車両」であることは従前のルールの中でもすでにあったことで、より安全を促すという公共性と社会正義の上から、「危険なルール違反を繰り返すと、自転車運転者講習が義務づけられる」と、法が改められたのである。大仰に言うつもりもないが、「危険なルール違反」さえしていなければという安心からかあまり神経質にとらえられてはいないところがあり、法改正の受け止め方にまだまだバラツキがあることは注目に値する。

 今月初めから注意深く見ていたが、対応が大変難しい中、交通安全のために奔走されている警察の方々の姿を目にした。警察の方々が関わられた例については、明らかに「危険なルール違反」であるので特にここでどうこうと言うことはない。むしろ、法改正によって人の遵法意識がどうなったかに注目したり、「ルール改正」でより安全になったかどうかの目線をむけてみようと思う。例をあげてみよう。

 先日、閑静な住宅街である八尾市山本町の水路脇の歩道で生徒を引率したときのこと、後ろから高齢の男性が自転車で近づいてこられ、"チリン、チリン"とベルを鳴らされた。生徒達はすぐに道を譲り通路をあけて自転車の通行を促した。起きたことはそれだけである。生徒達に、老婆心から尋ねてみた。「今の行為は適法か否か?」と。間髪入れず「自転車は、歩道を走ってはならず車道を通行すべきで、ここを走るのは違法。しかも、歩行者に対しベルを鳴らしてしまうのもおかしい」と。満点である。では、自転車に道を譲る行為についてはどうか?「譲る」ことが違法行為に屈するような行為だとする見方も存するかもしれないが、もし道幅一杯に歩き続けているとしたらどうだろう。違法性云々の話ではないことが浮き彫りになってくるのである。道を譲ったことそれ自体に、適法か否かの判断がなされたとは思いがたいのだ。自らの安全を守ることが最優先になった上の危険回避がこの行動原理であるはずで、この行動に間違いはないと思う。道幅一杯に歩き続け、後ろから来た高齢の方にスピードをさらに落とさせて、やがて自転車を止めさせたり、自転車から降ろしたりすることなどが全くの正義だとは思えないのである。正義という語を用いるなら、道を譲ったのは法よりも優先する「正義」にかなう行動だと思われるし、この点についても生徒の行動は満点だと思うのである。これが第一の例話である。

 二つ目の例は、生徒がからまないものだが、こんなことがあった。状況を説明すると、見通しの良い片側一車線の坂道の県道で車の速度制限は時速40km、坂を登り方向に向かって右側にのみ幅1.5mあるかなしかの歩道がついている。交通量は多く、坂を下る自動車も上る自動車もいずれも同じくらいの車の多さである。信号では常時5台くらいの車が上り下りともに並ぶだろうか。そこに電動アシストつきの自転車を運転する主婦が上っている。もちろん車道を、である。自転車を追い抜くために、また同時に対向車に気を遣いながら自動車は徐行をする。軽自動車の前に大きな車があれば、自転車は見えづらそうである。買い物帰りとおぼしくカゴに品物を入れて帰宅途中であるらしい。もうお解りだろう。この自転車は法に適っているので、先の例話の高齢の男性と違って、法意識については遵守意識が高いのだろう。もちろん「危険なルール違反」ではないものの、様子を見ている私はヒヤヒヤものであった。自転車を運転されている方も追い抜く自動車の運転手もまたおそらくそうであったに違いない。ここで何を考えるかということは、もうお判りだろうと思う。

 この法改正は、自転車の安全運行と自転車の危険運行に脅かされる歩行者の安全を守るという一般論に向き合っているので、すべての事象に向き合っているわけではないということである。さて、賢明な読者の皆さんは、これをどう考えられるだろうか。先に記したが、立法化されていてもいなくとも生活者の安全を第一に考えることは大切である。では、違法行為に及んで良いかとなれば話は別である。悲劇的な話だが、違法は違法である。

 自分たちにとって必要な改正を、自身の手でなすことができるなら、改正の前に起こりうることを真剣に考え抜くことが必要である。その点で最初に記した「今ココにいない人のために真剣に議論をして、今ココにいない人のために努力をすること」が大切だというのである。しかし、その変更に参画できない場合、未成年であるために選挙に関われないことを含むが、何が起こるかを懸命に考えることが求められているのである。「懸命」というくらいに、危機管理をすることが大切である。「今ココにいない人」ではなく、未来の(自分を含めて)誰かのために考えることが大事なのだ。法は公共性の求めるところであり、ここでは孤独・孤高になる必要はない。

 一方で、立法をする者は、利点欠点を含めあらゆる事象を考えに入れる必要がある。この点について、アメリカ合衆国は少なくとも日本より先進的であるように感じられる。こんなことをしたら、何が起こるかということについて、映画産業でさえもが映画のネタとして織り込んでしまうのだから。機械が人を殺したらどうするか、という議論をWEBで読んだがこれも優れた知見だ。

 さて、先ほどの坂道の事例だが、私なら「その道を利用しない」選択があるかどうかを考える。かつて米国大統領だったC氏は、徴兵を拒否するという自由を行使したという。日本にこうした自由があるかどうか、判然としないが、これも考え方だと思う。法がすべての事象に対応しきれてはいないという知性をつかむことができたら、法に対して不満をいうのではなく、インフラの改善や法改正を待つ間に、私たちがどうすべきかを考えるのが学びというものだ。政策学や法学が、そうした気づきの向こうにあることを大切にするのも学生の気づきとしては良いものだろう。しかし、いつもいつも学問がその向こうにあるとは限らないということもまた知性であることを忘れないでおきたい。


 (文責 キャリア教育推進部 若生哲)

2015.06.18
このページの先頭へ