「沙羅の木だより」第46号


平成31年3月13日


 本校が位置する大阪市中央区の北西部は、古くから「船場」と呼ばれる各種問屋街が集まる大阪経済の中心の一つで、北は土佐堀川、南は長堀川(現在の長堀通)、東は東長堀川(現在の阪神高速南行線)、西は西長堀川(現在は阪神高速北行線)に囲まれた南北二キロメートル、東西一キロメートルの地域をさします。かつて、その一帯が船着き場であったことから、船場と名付けられたといわれています。豊臣秀吉が大坂城下町経営の折、商人たちを集めて形成した町筋で、江戸時代に「天下相場の元方」「諸国の賄所」として商業の中心になりました。現在もその伝統を継承し、両替商の多かった北浜は証券・商社街、今橋および高麗橋通りは銀行街、道修(どしょう)町は薬の町、南久宝寺町は小間物・化粧品店が多く、そして、丼池(どぶいけ)や本町は繊維関係の町となっています。

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 その船場の商家で用いられたのが「船場言葉」で、昭和中期まで折り目正しい大阪弁の代表格として意識されていました。豊臣秀吉が船場を開発した当初は、堺から移住させられた商人が大半を占めていましたが、その後は平野商人、京都の伏見商人らが台頭し、江戸時代中期には近江商人が船場へ進出しました。このような経緯から、船場言葉は各地商人の言葉が混ざり合って成立したといわれています。商いという職業柄、丁寧かつ上品な言葉遣いが求められたため、京言葉(とりわけ御所言葉)の表現を多く取り入れ、独自のまろやかな語感・表現が発達しました。ひと口に船場言葉といっても、話し相手や状況、業種、役職によって言葉が細かく分かれていました。暖簾(のれん)を守る船場商人に限っては、経営者(主人、旦那)一族と従業員(奉公人)の独特の呼称を固定して用いていました。例えば、主人は「だんさん」、主人の妻は「ごりょんさん」、主人の息子は「ぼんさん」、主人の娘は「いとさん」、奉公人の番頭は「ばんとはん」、丁稚は「でっちさん」などと呼ばれていましたが、高度経済成長による商習慣の変化などにより、船場言葉は急速に衰退し、今では上方落語で耳にする程度となりました。

 旧制相愛高等女学校の卒業生である小説家、山崎豊子さんの初期作品には、船場など大阪の風俗に密着した小説が多くみられますが、その頂点が足袋問屋の息子の放蕩・成長を通して、商魂たくましく生き抜く大阪商人の典型を描いた「ぼんち」です。市川崑監督、市川雷蔵主演で大映から映画化され、何回かテレビドラマにもなっています。

 船場とともに百三十年、相愛中学校・高等学校は、これからも「當相敬愛」の精神に基づいて、報恩と感謝の念をはぐくみ、知性と教養、品格を備えた女性を育成してまいります。