「沙羅の木だより」その3

 
平成31年4月23日


 平成も、あと1週間を残すのみとなりました。巷では、「平成最後の・・・!」という文言が目立つようですが、私も「平成最後の散髪!」に行ってこようかと思っています。30年以上にわたり、慣れ親しんできた平成とお別れするのは、少し寂しい気もしますが、新しい令和が明るく希望に満ちた時代となるよう願うばかりです。


 さて、新元号の発表とほぼ同じタイミングで、新紙幣への切り替えが政府によって発表されました。紙幣は偽造防止などのため、およそ20年周期で紙幣を新しいデザインに変える改刷を行っているそうですが、今回、新紙幣に採用される3人はどんな人なのか、調べてみました。
 

 新しい一万円札の肖像画に選ばれた渋沢栄一は、「日本の資本主義の父」と呼ばれる人物で、天保11(1840)年、現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。幕末に幕臣として仕え、明治維新後は新政府で働いた後、実業界に転じ、明治6(1873)年に設立された「第一国立銀行(現みずほ銀行)」など約500の企業の設立や運営に関わりました。紙幣や国債などへの紙需要を見込み、国内で初めての製造会社として現在の王子製紙の創立にも参画しました。関西でも「第三十二国立銀行(現三井住友銀行)」や東洋紡、大阪ガスなどの設立に携わりました。
五千円札の顔になる津田梅子は、明治4(1871)年、政府が欧米派遣した「岩倉使節団」に6歳で加わりました。日本で最年少の女子留学生5人のうちの1人とされ、帰国後は女子教育のための学校をつくりたいとの夢を膨らませ、家庭教師や華族女学校の教師に従事しました。明治33(1900)年には、私立の女子高等教育機関として日本初の「女子英学塾(現津田塾大)」を創立するなどし、女子教育の先駆者としてその名を残しました。


 千円札の顔に採用された北里柴三郎は、近代医学に貢献した医学者です。ドイツに留学して細菌学者のロベルト・コッホに師事、破傷風菌の純粋培養技術や血清を使った治療法を開発し、世界的に知られるようになりました。帰国後も結核予防や細菌学研究に取り組み、大正3(1914)年には、北里大学の全身となる研究所を設立したほか、慶応大学医学部の創設にも尽力しました。
皆さん、少しは参考になったでしょうか。新紙幣の発行は令和6(2024)年度からとのことですので、まだまだ5年先の話なのです。


 典型的昭和人間の私にとって、思い出深い紙幣といえば、やはり、聖徳太子の一万円札・五千円札、伊藤博文の千円札、岩倉具視の五百円札、そして板垣退助の百円札です。小学生の頃は聖徳太子なんて見たことなく、お年玉は決まって岩倉具視でした。ちなみに、昔は五十円玉や五円玉にも、穴の開いていない硬貨があったのですよ。「ああ、昭和は遠くなりにけり」

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