「沙羅の木だより」その45



令和2年1月20日



 1月17日(金)、6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から25年が経ちました。神戸市など大きな被害を受けた地域では、遺族の方々が地震の起きた午前5時46分に黙とうし、犠牲者を悼みました。


 私自身、あの日の記憶は今でも鮮明に残っていて、あれから四半世紀が経過したことは感慨深いものがあります。


 1995(平成7)年1月17日、早朝5時46分、当時私が住んでいた奈良県東生駒の自宅マンション3階も、かつて経験がないくらい大きく揺れました。そろそろ起床する時間帯でしたが、あまりの激しい揺れに妻と二人飛び起きて、とっさに、私はタンスを両手で押さえ、妻は寝ている二人の息子(2歳10か月と10カ月)に覆いかぶさりました。その間1分か2分、はっきりとは覚えていませんが、かなり長く感じたものです。その後、最寄り駅まで行き、遅れて到着した近鉄奈良線の電車に乗り、勤務校へと向かいました。電車は途中、何度も何度も停まりながら、徐行運転の末、無事鶴橋駅まで到着したのですが、すでに大阪市内の公共交通機関は、JRも地下鉄もほぼ運行中止状態に陥っていました。携帯電話もまだ普及していない時代で、公衆電話には長蛇の列ができ、学校と連絡がつかない状況が続きました。やむなく、偶然一緒になった先輩教員と近くの喫茶店で様子を見ることにしたのですが、店のテレビでは、被災地の惨状がヘリコプターから刻々と映し出されていました。長田区の火災や阪神高速神戸線の倒壊など、時間を追うごとに被害の大きさが明らかとなり、胸が締めつけられる思いがしました。その後、ようやく電話が通じ、臨時休校になったので自宅で待機するよう指示を受け、再び、近鉄に乗って昼過ぎに東生駒へ戻りました。


 当時、私は西淀川区の高校に勤務していたのですが、学校の被害としては、窓ガラスが何枚か破損した程度で、地震の翌日から平常授業を行っていました。しかし、学校のすぐそばを通っている国道2号線は、歌島橋交差点以西が一般車両通行禁止となり、全国各地のナンバープレートをつけた救急車や消防車だけが激しく往来していました。その間隙を縫って、荷台に青いポリタンクやカップラーメンを山積みしたバイクや自転車が、朝から晩まで絶えることなく、西へ西へと向かって行きました。勤務校では、生徒会が中心となって、連日募金や古着の提供を呼びかけ、私も募金に協力し、袋一杯の衣服を持参したものです。地震によってこれだけ大きな被害が出ているときに、授業をしていてよいのだろうか、という葛藤があったことをよく覚えています。


 あれから25年、阪神・淡路大震災を知らない世代も増えてきました。南海トラフの巨大地震が今後30年以内に起こる確率は80%といわれています。巨大地震は起こるということを忘れないで、備えに徹したいものです。


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